2015年11月09日
旭姫の供養塔を訪れました。~井宮散策~
先日、買い物の帰りに瑞龍寺の近くを通ったので
かねてより気になっていた『旭姫の墓』を訪れてみました。
※地図中にある酒蔵だった忠正ビルは、今はブロンコビリーになっちゃってます。
余談ですが、昔、井宮には鉄道の駅があり、近くには山岡鉄舟邸がありました。
明治になって、徳川家と一緒に静岡に来たんですね。
『旭姫』の話に戻ります。
といっても、私自身、ピンとこなかったのでいろいろ調べてみました。
百姓だった豊臣秀吉の異父妹ですので、生まれながらのお姫様、という訳じゃなく
家康と政略結婚させるため、急きょ『姫』となったようです。
大河ドラマでは、松本明子さんが演じたことがありましたね~。
たしかドラマでは出世して御殿を建てた秀吉が家族をよびよせ
「あんちゃん、すげぇ~!」とか-ちゃん(大政所)と一緒にはしゃいでいたような・・・。
まだ秀吉じゃなく「ひよし~。」と呼ばれてました。
百姓だった夫(秀吉の義弟と言うことでそれなりに出世させてもらっていた)
と平穏に暮らしていたところを、離別させられ徳川家康の上洛を促すために
政略結婚させられちゃったんですね~。
旭は44歳は家康45歳。
入興の行列は豊臣家の財力を誇示して豪勢だったそうです。
旭姫は駿府城に住んでいたころは『駿河御前』と呼ばれていました。
ところが婚儀が済んでも家康は上洛せず、秀吉は今度は「娘の様子を見たいと
母親が望んでいる」と称し、年取った母「大政所」を人質として送り込みました。
ニセモノではないかと疑う家康は先ず旭と大政所を会わせ、再会を喜び
尾張弁で会話をする様子(みゃーみゃー言ってたのかな?)を見て
本物だと確信し、上洛したそうです。
上洛中、家康に万一のことがあった場合に備えて、家来たちは2人の滞在する
家の周りを薪で取り囲みいつでも火を放って処刑できるように見張っていたとか。
もともと『旭姫に子供が生まれても徳川家の跡取りにしない』とか約束事があったように
形式だけの結婚。いつ殺されるか分からないストレス半端ない生活に
とうてい耐えられるはずありません。
今度はカーチャン(大政所)の具合が良くないのを見舞いに行くと言って
上洛、そのまま帰らず別居。今度は自分が病気で亡くなってしまったという・・・。
この時、旭姫48歳。
家康と共にあったのはわずか2年。カーチャンのトコロに戻って2年。
最後は心安らかに逝けたでしょうか・・・。
お墓は秀吉が京都に建てましたが、それでも旭姫を可哀想に思ったのでしょうか
家康がここ瑞龍寺にも分骨してお墓を建て、供養したそうです。
供養塔は西に向かって建てられ、夕日が良く見えました。
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静岡って歴史が深いよね。
旭姫については知らなかった。
地元でも旭姫のことはあまり知られてないみたい。
私も知らなかった(^_^.)
今年は徳川家康没後400年ってことで
静岡ではいろいろなイベントがあったんだけど
正室・側室については、ほとんど触れてなかったしね。
全部あわせて20人くらいいたみたい。
子供は、息子11人、娘5人いたんですって~。
中世は女性にとって過酷な時代だったと書いてあったよ
政略結婚、気の毒だよねえ。。。。
「人生50年」とかいう時代に、40を超えて
政略結婚はキツイわよねー。
昔は、生まれ育ったところから遠く離れた他所に
嫁ぐのって、外国に行くのと同じくらいの感覚だったろうな。
政略結婚だったら命の危険もあったし。
徳川家康は『年増好み』という噂もあったから、実は
家康にとっては、まんざらじゃなかった、という説もあるんだって^m^